2017年3月29日水曜日

軍艦島(端島)ー日本海を航海する

 1960年代前半,名前そのものの異形と大都会のような高層住宅が映る写真は小学生の脳に強く焼き付きました。25年近く前に長崎を訪れた時,軍艦島(端島:はしま)はすでに無人島になり船も通わないと知らされ,記憶を確かめることを断念しました。
2015年に端島はユネスコに世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つとして登録され,限られた場所と時間で見学ができるようになりました。
長崎港には造船所と関連施設が並び,現代の軍艦も停泊しています。
端島は港から19km西南の海上に浮かんでいます。
上陸できるのは運行の7割程度ととのことでしたが,午前中の雨にもかかわらず”ドルフィン桟橋”に船を着けることができました。
崩れながらもその姿をとどめる端島小中学校(右奥)や屋上幼稚園のあった社宅(左手前)からは”廃墟”とは別のものが伝わってきます。
正面からの端島小中学校。4階まで小学校,5・7階が中学校,6階に講堂,図書館,音楽室がありました。最盛期には東京都の9倍以上の人口密度で5,200人以上が生活していたこの島には元気な子供の声が響いていたことでしょう。
右は石炭を運ぶベルトコンベアーの支柱の跡。
見学コース案内のパンフレットから。
東西160m,南北480m,周囲1.2kmの要塞のような島の桟橋側半分(図の下側)は鉱山関係施設が占め,東シナ海側半分に住宅ビルを配して防波堤の役目を持たせていたことがわかります。
東シナ海からの過酷な波と風の中でも保存されてきた社宅ビル群は,当時の設計と施工技術の高さを示すものでしょう。
右端の白い灯台(廃坑後に設置)の後ろには全島に水を供給する貯水槽があります。左1/3ほどの高い位置に端島神社の祠(ほこら)がポツンと残っています。
島の南西部,船首に当たる部分にある25mプール。1958年に作られ,海水を使っていました。
「イソヒヨドリ」:ツグミ科 Monticola solitarius
青い頭部とオレンジ色の胸部。
仕上工場(炭鉱で使う機械を修理・調整)跡の窓で。
 赤レンガの総合事務所跡。共同浴場がありましたが,海面下1,000m,気温30℃,湿度95%の採掘場から戻った作業員は服を脱ぐことができず,そのまま入ったそうです。
階段が残る第二竪坑(たてこう)への桟橋跡(右)。海底炭鉱への主要な入り口です。
見学用パンフレットから。
第二竪坑は主力坑道で,600mを一気に降り,さらに海面下1,000mまで急勾配で下ります。
端島は石炭を含む地層が海面にわずかに頭を出した場所でした。
端島は6回の埋め立てを経て約3倍の大きさになり,建物を増やしながら現在の形に作り変えられました。本格的な採炭が始まる1891年から1974年1月に閉山するまで1,570トンの石炭が海底から掘出され,戦争をはさむ歴史の中で日本の産業を支えてきました。
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石炭は植物が埋没し,地下の熱や圧力で岩石になったものです。
古生代”石炭紀”(3億6千万年〜3億年前)の名前通り世界の主な炭田はこの時期にシダ植物の大森林をもとに作られました。
平朝彦「日本列島の誕生」岩波新書から改変。
 日本の炭田はもっと新しく,それは日本海の形成過程と関連付けられています。2,000万年前に日本列島はユーラシア大陸から別れ始め,その裂け目には河川や湖沼がありました。そこに植物が堆積し,地下深く沈み込んで熱と圧力を受けて石炭化しました。1,500万年ほど前から海水が浸入し,日本海は拡大していきます。その頃に堆積した岩石の地磁気の方向(矢印)は北を示さず,西南日本では時計回りに45°傾き,東北日本では反時計回りに25°傾いています。これを当時の位置に戻すと,九州地方は上図のように回転しながら北東よりに移動します。
Google Map より
 軍艦島(端島)は2,000万年かけて東シナ海を越え,時計回りに回転(青線から黄線へ)しながら南西方向へ現在の位置(黄色線)まで”航海”してきたと言えるでしょう。


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