2017年3月31日金曜日

グビロが丘からー爆心の医科大学

  今年度の日本解剖学会の会場となった長崎大学医学部(旧長崎医科大学)は,南国・九州の風情を感じさせます。
医学部の正門から進むと、こんもりと形の良い樹林の丘が目に止まります。
「グビロが丘」,そこは大学の構内とのこと。学会日程の合間に登ってみることにしました。
丘の北縁にあたる熱帯医学研究所。研究所の脇道から登ることにしました。
少し入ると旧薬学専門部の防空壕跡に建てられた慰霊碑がありました。
長崎は軍需工場も多く,大都市空襲の前から標的になりました。
1945年8月9日、掘削作業中の学生と教員が被爆し亡くなりました。
(壕内で作業していて奇跡的に助かった学生の手記は悲惨なものです)
うっそうとした雑木林を登ります。丘を形作る高く茂る樹木は「クスノキ」でした。
丘の頂上は平坦な広場のようにひらけ,奥に「慰霊碑」と書かれた石碑が建っています。
(碑文を白黒反転しました)
被爆当時この広場に多くの重傷者が避難しましたが,水を求めながら多くの人が亡くなりました。
碑の傍らに設けられた水場が,痛ましく思えます。
碑の裏面に刻まれた句。「傷つける 友をさがして火の中へとび入りしまま 帰らざりけり」。永井隆先生は自らの被爆をおして負傷者の救護にあたられました。
(原爆医学資料室の展示から)
長崎医科大学も896名の学生・教職員が犠牲になりました。
そして、10月から11月にかけて多くの学生の遺体がグビロが丘に埋葬されました。
(原爆医学資料室の展示から)
大学・病院とも爆心から500mほどの距離にあり壊滅的な状況でした。
丘の上から眺めた長崎市街です。
左下に付属病院がみえます。
(原爆医学資料室の展示から)
被災後のグビロが丘からの写真。鉄筋の枠だけが残る付属病院。
まわりはすべて焼け落ちた瓦礫(がれき)となっています。
(原爆医学資料室の展示から)
組織観察用のプレパラートや顕微鏡の一部。ガラスが溶けて融合しています。
700℃以上はあったのではないでしょうか。生物も無生物も劫火(ごうか)の中にありました。
下り坂の林床で見つけた、テンナンショウの仲間。
「ムサシアブミ」: Arisaema ringens サトイモ科テンナンショウ属。
当時、グビロが丘は全ての草木が焼かれて枯れ山のような状態でした。
今、私たちが目にする木も草も被爆後に生育してきた子孫たちです。
熱帯医学研究所の北奥にある原爆医学資料室。
時計は1945年8月9日の11時2分を指したままです。
病理学的な展示に見入っているのは、解剖学会の参加者かも知れません。
(原爆医学資料室の展示から)
長崎の原爆による(衝撃、熱、火災や崩壊、放射線など)被害の実態は基礎文書そのものが焼失しているために把握が難しいのですが、1年以内の死亡者は約7万名(広島で約12万名)、5年間後までの死亡者は約14万名(広島で約20万名)といわれています。現在でも多数の人が原爆の後遺症に苦しんでいますし、そして新たに福島原発事故の影響を恐れている人が多数存在します。
 2011年の東日本大震災による死者・行方不明者は約1万8500名(震災関連死を除く)との統計があります。死者の数を比較するのが許されるならば、原子爆弾という兵器が人知を超えた桁外れの破滅をもたらすことだけは辛うじて想像されます。
美しい長崎の夜景。
グビロが丘の写真と重なって違った色合いに見えてくる瞬間がありました。

2017年3月30日木曜日

オポッサムの顎を調べるー解剖学会発表

 有袋類のオポッサム”ハイイロジネズミオポッサム (Monodelphis domestica)”はマウスとラットの間ほどの大きさですが,妊娠期間は14.5日と短く未熟な状態で生まれます。しかし,自力で母親の乳首にたどり着き,乳を飲まなければなりません。それに必要な体の部位は有胎盤類とは異なる発生過程をとると考えられます。今回は、顎の発達を形態的に追うことにしました。
生まれて間もない(2日目)親子です。
オポッサムは有袋類といってもカンガルーのような袋がありません。
生まれたばかりの新生仔の姿です。後ろの目盛りは1mmです。
前肢の発達を思わせるように、指には爪がついています。
新生仔のCTの画像です。前肢と顎の部分の骨化が進んでいます。
 生まれてから成獣になるまでのオポッサムを,動物センターに設置されているX線CT(リガク:μCT CosmoScan)で撮影し、変化を読み取ります。
 動物実験には厳密な審査が義務付けられます (承認番号AP09MD023, AP12MD015, AP14MD014)。

下顎骨では筋突起の発生が早く,顎関節をつくる関節突起は10日を過ぎて後方へ膨隆してきます。2週目近くなると関節突起の上方への発達が始まります。下顎窩がそれを受けますが、側頭骨頬骨突起と頬骨は5日過ぎに細い棒状に出現します。顎関節らしくなるのは25日目あたりですが、下顎頭の上面は弯凹していますし下顎窩にあたる窪みはありません。オポッサムの顎関節としての形態は40日を経過して観察されました。私たちの飼育下では40日頃から親から離れはじめ,60日頃から自分で飼料を食べるようになります。この間に顎関節の機能が完成されると思われます。
左矢印:関節後突起、右矢印:頬骨
 オポッサムの成獣の下顎窩は関節後突起が発達して深く、また関節面には頬骨の一部も含まれます。ラット等では側頭骨のみです。
ここまでのまとめを長崎大学で開催された日本解剖学会(3/27-30)で発表しました。
  爬虫類の発生の研究者や耳の進化を考えている研究者、腎臓の組織の研究者など多方面からの関心を得られ、うれしく思います。しかしまだまだ、残された問題が多くあります。

2017年3月29日水曜日

軍艦島(端島)ー日本海を航海する

 1960年代前半,名前そのものの異形と大都会のような高層住宅が映る写真は小学生の脳に強く焼き付きました。25年近く前に長崎を訪れた時,軍艦島(端島:はしま)はすでに無人島になり船も通わないと知らされ,記憶を確かめることを断念しました。
2015年に端島はユネスコに世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つとして登録され,限られた場所と時間で見学ができるようになりました。
長崎港には造船所と関連施設が並び,現代の軍艦も停泊しています。
端島は港から19km西南の海上に浮かんでいます。
上陸できるのは運行の7割程度ととのことでしたが,午前中の雨にもかかわらず”ドルフィン桟橋”に船を着けることができました。
崩れながらもその姿をとどめる端島小中学校(右奥)や屋上幼稚園のあった社宅(左手前)からは”廃墟”とは別のものが伝わってきます。
正面からの端島小中学校。4階まで小学校,5・7階が中学校,6階に講堂,図書館,音楽室がありました。最盛期には東京都の9倍以上の人口密度で5,200人以上が生活していたこの島には元気な子供の声が響いていたことでしょう。
右は石炭を運ぶベルトコンベアーの支柱の跡。
見学コース案内のパンフレットから。
東西160m,南北480m,周囲1.2kmの要塞のような島の桟橋側半分(図の下側)は鉱山関係施設が占め,東シナ海側半分に住宅ビルを配して防波堤の役目を持たせていたことがわかります。
東シナ海からの過酷な波と風の中でも保存されてきた社宅ビル群は,当時の設計と施工技術の高さを示すものでしょう。
右端の白い灯台(廃坑後に設置)の後ろには全島に水を供給する貯水槽があります。左1/3ほどの高い位置に端島神社の祠(ほこら)がポツンと残っています。
島の南西部,船首に当たる部分にある25mプール。1958年に作られ,海水を使っていました。
「イソヒヨドリ」:ツグミ科 Monticola solitarius
青い頭部とオレンジ色の胸部。
仕上工場(炭鉱で使う機械を修理・調整)跡の窓で。
 赤レンガの総合事務所跡。共同浴場がありましたが,海面下1,000m,気温30℃,湿度95%の採掘場から戻った作業員は服を脱ぐことができず,そのまま入ったそうです。
階段が残る第二竪坑(たてこう)への桟橋跡(右)。海底炭鉱への主要な入り口です。
見学用パンフレットから。
第二竪坑は主力坑道で,600mを一気に降り,さらに海面下1,000mまで急勾配で下ります。
端島は石炭を含む地層が海面にわずかに頭を出した場所でした。
端島は6回の埋め立てを経て約3倍の大きさになり,建物を増やしながら現在の形に作り変えられました。本格的な採炭が始まる1891年から1974年1月に閉山するまで1,570トンの石炭が海底から掘出され,戦争をはさむ歴史の中で日本の産業を支えてきました。
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石炭は植物が埋没し,地下の熱や圧力で岩石になったものです。
古生代”石炭紀”(3億6千万年〜3億年前)の名前通り世界の主な炭田はこの時期にシダ植物の大森林をもとに作られました。
平朝彦「日本列島の誕生」岩波新書から改変。
 日本の炭田はもっと新しく,それは日本海の形成過程と関連付けられています。2,000万年前に日本列島はユーラシア大陸から別れ始め,その裂け目には河川や湖沼がありました。そこに植物が堆積し,地下深く沈み込んで熱と圧力を受けて石炭化しました。1,500万年ほど前から海水が浸入し,日本海は拡大していきます。その頃に堆積した岩石の地磁気の方向(矢印)は北を示さず,西南日本では時計回りに45°傾き,東北日本では反時計回りに25°傾いています。これを当時の位置に戻すと,九州地方は上図のように回転しながら北東よりに移動します。
Google Map より
 軍艦島(端島)は2,000万年かけて東シナ海を越え,時計回りに回転(青線から黄線へ)しながら南西方向へ現在の位置(黄色線)まで”航海”してきたと言えるでしょう。