2017年4月16日日曜日

手賀沼を歩くー「血脇守之助」生誕の地

  松戸歯学部で2011年から続けている「歯科医学歴史散歩」。今回(第9回)は「血脇守之助」ゆかりの地です。
左:Wikipediaより。右:記念碑除幕式・ポスター写真より
 血脇守之助(1870-1947)は千葉県我孫子市の出身で歯科医療制度・歯科教育界の草分けであり、現在の東京歯科大の創設者です。また,「野口英世」を育てた人物としても知られています。彼の生涯についての詳細は(http://www.tdc.ac.jp/chiwaki/index.htmlhttp://www.tdc.ac.jp/chiwaki/index.html)
で知ることができます。
4月16日10時,我孫子駅南口。駅前の観光案内図で石橋先生(麻酔科)からコースの説明を受けます。
 駅から歩いて5分ほどで「角松本店」(割烹旅館:写真左)が見えて来ます。
血脇守之助の生家はこの向かいにあった「かど屋」という旅館でした。
1930年,血脇の業績をたたえた石碑がその跡地に建てられ,盛大な除幕式がありました。
(写真の赤いコーンの内側付近)
現在は手賀沼公園の一角に移設されています(1978年)。
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かど屋の近くにある「子の神(ねのかみ)道標」(寛政;1789年)
江戸時代,我孫子は水戸街道の宿場でした。この近くに大名の宿泊する「本陣」がありました。
手賀沼湖畔の「旧村川別荘」の母屋は「本陣」の離れを移築・改装したものと伝えられています。
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今回の企画は我孫子市の「杉村楚人冠(そじんかん)記念館」で開催されている『没後70年記念展示:血脇守之助~我孫子が生んだ歯科医学の功労者』に合わせたものです。
記念館となっている「母屋」
斜面途中の「澤の家」と呼ばれる別棟
母屋から見た「茶室」。木々の間に手賀沼の対岸を望む。
母屋付近から「池」の方向を望む
案内板に加筆。元の敷地(黄色)は公園を含む広大なもの。
「母屋」の建つ場所は台地の上(海抜20m)にあり,「澤の家」や「茶室」は傾斜地に建てられ,入り込んだ低地には「池」を配し,高低差のある景観を楽しんだのでしょう。池には湧き水が引き込まれています。
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都内から約1時間,手賀沼の向こうに富士山が望める我孫子。
志賀直哉の別荘跡の案内図(昭和の古い地図)
多くの著名人が別荘を構えましたが,斜面の高低差と湧水を利用できる立地が特徴のように思えます。
 台地の崖は「ハケ」と呼ばれ,ハケ下の低地は手賀沼周囲の道路として機能し,
沼の干拓によって田んぼが広がっていました。
所々にハケからの湧水が保存されています。水の出口は道路面より少し上にありました。
志賀直哉別荘跡で記念写真
 別荘の母屋があった場所は道路より一段高くなっています。
後ろの池には湧水が直接出ていました。
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東京湾と利根川の間には「下総(しもうさ)台地」がはまり込んでいます。
松戸の千駄堀は5,000年ほど前に東京湾が広がってできた低地が,約30mの高さの台地(点々:下末吉面)に囲まれた「谷津(やつ)」です。一方,手賀沼は同時期に太平洋につながる浅海がせき止められて標高20m程度の台地(斜線:武蔵野面)に囲まれました。ここにも「谷津」がつくられ,別荘地はその地形を利用したようです。
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血脇守之助と杉村楚人冠との直接の関わりは薄かったようです。手賀沼の景観を守るために楚人冠らが中心になって干拓反対の運動を進めた時に,賛同した血脇から送られた手紙が記念館に残されています。

2017年4月13日木曜日

実験動物慰霊祭ー医学研究の礎(いしずえ)

 今週から新入生も授業が始まりました。今年度の松戸歯学部実験動物慰霊祭は13日の12:20から挙行されました。基礎および臨床医学の研究,そして学生教育のために毎年多くの実験動物がつかわれています。
動物実験センターの横の慰霊碑。
供物がそなえられます。
斎主(さいしゅ)として松戸神社の神官が招かれ,その次第に従って進められます。
学部を代表して学部長が玉串を捧げます(玉串奉奠:たまぐしほうでん)。
研究者を代表して研究担当教員,そして事務職の代表が続きます。
 大学院生代表(佐藤博紀君)も神官から玉串を受け取り捧げます。
 学部生を代表して加茂賢吾君が慰霊塔に進みます。
 祭主の渋谷学部長は挨拶の中で、実験者は感謝の念を持ち道義的・倫理的な責任を常に忘れないことを強調し、実験動物の冥福を祈りました。
 動物実験はできるだけ苦痛を伴わず,最小の犠牲で済むように,計画の段階から倫理規定によって厳しく審査されます。昨年度の動物実験講習会参加者は131名。延べ6,039名の研究者が動物実験センターを利用しました。動物5種,1,827頭の貴重な命に感謝し,安らかな眠りにつかれることを祈ります。
校門の桜はすでに満開を過ぎ,枝には葉が目立つようになっています。


2017年3月31日金曜日

グビロが丘からー爆心の医科大学

  今年度の日本解剖学会の会場となった長崎大学医学部(旧長崎医科大学)は,南国・九州の風情を感じさせます。
医学部の正門から進むと、こんもりと形の良い樹林の丘が目に止まります。
「グビロが丘」,そこは大学の構内とのこと。学会日程の合間に登ってみることにしました。
丘の北縁にあたる熱帯医学研究所。研究所の脇道から登ることにしました。
少し入ると旧薬学専門部の防空壕跡に建てられた慰霊碑がありました。
長崎は軍需工場も多く,大都市空襲の前から標的になりました。
1945年8月9日、掘削作業中の学生と教員が被爆し亡くなりました。
(壕内で作業していて奇跡的に助かった学生の手記は悲惨なものです)
うっそうとした雑木林を登ります。丘を形作る高く茂る樹木は「クスノキ」でした。
丘の頂上は平坦な広場のようにひらけ,奥に「慰霊碑」と書かれた石碑が建っています。
(碑文を白黒反転しました)
被爆当時この広場に多くの重傷者が避難しましたが,水を求めながら多くの人が亡くなりました。
碑の傍らに設けられた水場が,痛ましく思えます。
碑の裏面に刻まれた句。「傷つける 友をさがして火の中へとび入りしまま 帰らざりけり」。永井隆先生は自らの被爆をおして負傷者の救護にあたられました。
(原爆医学資料室の展示から)
長崎医科大学も896名の学生・教職員が犠牲になりました。
そして、10月から11月にかけて多くの学生の遺体がグビロが丘に埋葬されました。
(原爆医学資料室の展示から)
大学・病院とも爆心から500mほどの距離にあり壊滅的な状況でした。
丘の上から眺めた長崎市街です。
左下に付属病院がみえます。
(原爆医学資料室の展示から)
被災後のグビロが丘からの写真。鉄筋の枠だけが残る付属病院。
まわりはすべて焼け落ちた瓦礫(がれき)となっています。
(原爆医学資料室の展示から)
組織観察用のプレパラートや顕微鏡の一部。ガラスが溶けて融合しています。
700℃以上はあったのではないでしょうか。生物も無生物も劫火(ごうか)の中にありました。
下り坂の林床で見つけた、テンナンショウの仲間。
「ムサシアブミ」: Arisaema ringens サトイモ科テンナンショウ属。
当時、グビロが丘は全ての草木が焼かれて枯れ山のような状態でした。
今、私たちが目にする木も草も被爆後に生育してきた子孫たちです。
熱帯医学研究所の北奥にある原爆医学資料室。
時計は1945年8月9日の11時2分を指したままです。
病理学的な展示に見入っているのは、解剖学会の参加者かも知れません。
(原爆医学資料室の展示から)
長崎の原爆による(衝撃、熱、火災や崩壊、放射線など)被害の実態は基礎文書そのものが焼失しているために把握が難しいのですが、1年以内の死亡者は約7万名(広島で約12万名)、5年間後までの死亡者は約14万名(広島で約20万名)といわれています。現在でも多数の人が原爆の後遺症に苦しんでいますし、そして新たに福島原発事故の影響を恐れている人が多数存在します。
 2011年の東日本大震災による死者・行方不明者は約1万8500名(震災関連死を除く)との統計があります。死者の数を比較するのが許されるならば、原子爆弾という兵器が人知を超えた桁外れの破滅をもたらすことだけは辛うじて想像されます。
美しい長崎の夜景。
グビロが丘の写真と重なって違った色合いに見えてくる瞬間がありました。