週末のシドニーはテレビでも被害が報道されるほどの悪天候でした。
シドニーの温暖湿潤気候はアデレードやパースの地中海気候とは違った肌感覚があります。
ワールドスクエアー付近のゲリラ的な豪雨。
クイーン・ビクトリア・ビル(1898年完成)。
大規模なショッピングモールになっています。
ピット通りを北上してシドニー湾のサーキュラー・キー(Circular Quay:観光船等の船着場。オペラ・ハウスがあります)に向かいます。
市街はかなりの起伏があり,複雑な地形を反映しています。
シドニー湾西側に架かる巨大なハーバー・ブリッジ(1932年建設)も横なぐりの雨にかすみます。
シドニー湾は,太平洋に面するポート・ジャクソン湾の入り江の1つで,リアス式海岸を形成する溺れ谷です。縄文海進のオーストラリア版ともいえます。
地図で見ると複雑な海岸線がわかります。
ハーバー・ブリッジの傍らの”ロックスRocks”と呼ばれる一帯は,近代的な”シティCity”のビル街とは対照的な古い街並を残しています。
”ファースト・インプレッション”と呼ばれるモニュメントが置かれ,イギリスからの最初の入植を記念しています(1788年1月:現在のオーストラリア・ディは1月26日)。説明のパネルには11艘の船で約1,500名が到着し,内780人近くが囚人だったと記されていました。”ロックス”の名の通り,背後には切り立った岩の崖がそびえています。
サーキュラー・キー東岸の砂岩の崖。向こう側は王立植物園 |
チャールズ・ダーウィンは「ビーグル号航海記(1845)」の中で,”1836年1月12日。早朝,軽風は我々をポート・ジャクスンの入口に向かって運んだ。立派な家を散在させた緑の土地を見る代わりに,黄色を帯びた直線状の崖は,我々の心にパタゴニアの海岸を思わせた。・・・・湾内に入れば,水平な層をなす砂岩の崖の海岸が壮観で,すべて広々とした大規模なものに見えた。・・・遂に我々はシドニー湾内に碇泊した。多くの大船が繋って,倉庫をめぐらせた内港があった。・・”
と記述し,市内を巡り入植から50年も経たないシドニーの繁栄を賞賛しています。
週が明けると天気は回復し,オペラハウスが青天に映えます。
オペラハウスから望むサーキュラー・キー。右手にロックスの倉庫街が見えます。
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1942年5月31日から6月1日にかけて日本軍の3隻の小型潜水艦がシドニー湾に侵入し,魚雷攻撃を受けて21人のオーストラリアとイギリスの兵士が死亡しました。
3艘とも沈められ,2艘は引揚げられました(当時の写真)。 2006年,謎だった残る1艘が発見されました。(オーストラリア博物館のHPから) |
74年前の今頃,中心都市シドニーはどれほどの驚きと混乱と憎悪の中にあったでしょう。第二次世界大戦ではオーストラリアの敵は赤道を越えた日本でした。
博物館の歴史展示の前を通るたびに考えさせられます。
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