左:Wikipediaより。右:記念碑除幕式・ポスター写真より |
血脇守之助(1870-1947)は千葉県我孫子市の出身で歯科医療制度・歯科教育界の草分けであり、現在の東京歯科大の創設者です。また,「野口英世」を育てた人物としても知られています。彼の生涯についての詳細は(http://www.tdc.ac.jp/chiwaki/index.htmlhttp://www.tdc.ac.jp/chiwaki/index.html)
で知ることができます。
で知ることができます。
4月16日10時,我孫子駅南口。駅前の観光案内図で石橋先生(麻酔科)からコースの説明を受けます。
駅から歩いて5分ほどで「角松本店」(割烹旅館:写真左)が見えて来ます。
血脇守之助の生家はこの向かいにあった「かど屋」という旅館でした。
1930年,血脇の業績をたたえた石碑がその跡地に建てられ,盛大な除幕式がありました。
(写真の赤いコーンの内側付近)
(写真の赤いコーンの内側付近)
現在は手賀沼公園の一角に移設されています(1978年)。
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かど屋の近くにある「子の神(ねのかみ)道標」(寛政;1789年)
江戸時代,我孫子は水戸街道の宿場でした。この近くに大名の宿泊する「本陣」がありました。
手賀沼湖畔の「旧村川別荘」の母屋は「本陣」の離れを移築・改装したものと伝えられています。
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今回の企画は我孫子市の「杉村楚人冠(そじんかん)記念館」で開催されている『没後70年記念展示:血脇守之助~我孫子が生んだ歯科医学の功労者』に合わせたものです。
記念館となっている「母屋」 |
斜面途中の「澤の家」と呼ばれる別棟 |
母屋から見た「茶室」。木々の間に手賀沼の対岸を望む。 |
母屋付近から「池」の方向を望む |
案内板に加筆。元の敷地(黄色)は公園を含む広大なもの。 |
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都内から約1時間,手賀沼の向こうに富士山が望める我孫子。
志賀直哉の別荘跡の案内図(昭和の古い地図) |
台地の崖は「ハケ」と呼ばれ,ハケ下の低地は手賀沼周囲の道路として機能し,
沼の干拓によって田んぼが広がっていました。
所々にハケからの湧水が保存されています。水の出口は道路面より少し上にありました。
志賀直哉別荘跡で記念写真 |
後ろの池には湧水が直接出ていました。
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東京湾と利根川の間には「下総(しもうさ)台地」がはまり込んでいます。
松戸の千駄堀は5,000年ほど前に東京湾が広がってできた低地が,約30mの高さの台地(点々:下末吉面)に囲まれた「谷津(やつ)」です。一方,手賀沼は同時期に太平洋につながる浅海がせき止められて標高20m程度の台地(斜線:武蔵野面)に囲まれました。ここにも「谷津」がつくられ,別荘地はその地形を利用したようです。
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血脇守之助と杉村楚人冠との直接の関わりは薄かったようです。手賀沼の景観を守るために楚人冠らが中心になって干拓反対の運動を進めた時に,賛同した血脇から送られた手紙が記念館に残されています。
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